2007年05月19日
八丈島と流人
八丈島は東京の南、約290キロ離れた海上に位置する。
ひょうたん型の島で、北に八丈富士(854メートル)、南に三原山(701メートル)といった高い山がそびえ、黒潮の関係か「夏は涼しく、冬は温暖」な気候の島である。
現在は八丈町があり、約9000人の人々が島に暮らし、アクセスは竹芝桟橋からのフェリーの夜行便、そして空路は東京まで1日に4往復が就航している。
八丈島の名前の由来は特産品の「黄八丈」に由来するという説もある。
黄八丈とは、黄、樺、黒の三色を用いた特産の草木染の絹織物であり、年貢として納められるほど貴重なるものであった。
それらの八丈の絹が織られる島だから八丈島と言うことになったという。
室町時代から人が文化的に暮らす島であったが、江戸時代には本格的な流刑地となった。
。
慶長十一年(1606年)に宇喜多秀家らが流されてから明治四年までの265年間に、八丈島遠島に処せられた流人は1900人余り、そのうち1700人余りが八丈島に流れ着き、700人ほどが赦免され帰ることができたという。
その内訳は
官女 2
大名 4
御家人 381
陪臣 62
小者 61
僧 221
山伏 6
社人 10
百姓 281
町人 315
無宿 324
その他 15
女 73
となっている。
武士などの支配層、また僧侶などの宗教者が半数近く占めているのがおもしろい。
流されるものは比較的年寄りで、佐渡などに比べれば暖かく、しかもある程度の自由は与えられていたという。
しかし、流人は原則的には結婚ができなかったので、流人といっしょになった女は水汲み女と言われていたらしい。
現在の八丈島の人々が流人の末裔であるというのは大きな間違いなのである。
島抜けという脱獄も18回試みられてはいるが、そのうち成功したのは一例だけ。やはり孤島であり、海流も早いので脱獄は無理であったのであろう。
また流人が島でさらに犯罪を犯すと、八丈小島や青ヶ島に流されたという。
八丈島には流人がもたらした文化的なものは、養蚕技術、甘藷、学問、焼酎などがあげられる。

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